「隣の芝生は青い」という言葉があります。
自分の庭の芝生は生え方がまばらで、お隣の庭の芝生は青々としてきれいに生えている、なんでうちの芝生は綺麗に生えないんだ?と考えてしまう様子から、「なんでも他人のものがよく見えること」を言っています。
この見え方は「解像度」の違いから生まれます。
実際はお隣の芝生も生え方がまばらで、なんだったら枯れているところもあって大差はないのですが、近くに寄ってみなければわかりません。
逆に言えば、物事を見る解像度をあげることで無用な敵がい心や、ねたみ・そねみを持たずに済むようになります。
以前聞いた話です。
電車に子連れの男性が乗ってきました。子ども達は車内で大騒ぎし、動き回っています。男性は心ここにあらずと言った様子で座ってるだけです。他の乗客は迷惑をしているのですが、男性は止めようともしません。
見かねた乗客の一人が「あなた、なぜ子ども達を止めないんですか?」ととがめるように言ったところ、男性は「…ああ、そうですね…先ほど妻が亡くなったばかりで、私も子ども達も混乱してしまっていて…」とつぶやきました。
事情がわかった時、乗り合わせていた客達はそれまで感じていた感情とは別の思いを持ったのではないでしょうか。
そして、井桁容子先生(乳幼児教育実践研究家)からうかがったお話を思い出します。
—
「病気になったとき、親が心配してくれてうれしかった」と言う学生さんがいたとうかがいました。
その学生さんが小さかった頃、病気になった時の、困ったな〜…、という親の様子をよく覚えていて、自分が病気になることは親に迷惑をかける事、悪いことと考えていたそうです。
それが心配してくれたのでうれしかった、と。
本来なら親が子供の体調を気づかうのは当たり前で、病気になることに罪悪感を感じる必要などない、というものでしょう。親の微妙な表情を読み取り、小さな子供は自分の病気を迷惑なものとして胸を痛めている、というのはなんとも切ない話です。
病気の子供の近くにいてあげられる、子供の病気を厄介なものとは考えなくていいというのは、実にあたり前のことなのに、非常に難しいことのようになっていると感じています。
ほんの少しの、病気をしやすい、幼い間の時間だけで構わないのです。大人は勇気を持って、子供の側にいてあげる時間を作れれば、と願わずにはいられませんでした。
園に通う子ども達は自分のことを語るには幼いです。しかし上記のような思いを抱えているのではないでしょうか。
これも解像度を上げることで理解を深めれば、単にわがままとしていたものが深い意味を持つことに気づけるかもしれません。
園長 橋本貴志